公儀普請篇

パックス・トクガワーナ〜軍事力を公共事業に転換した知恵〜

平和を求める人々

01

戦国時代の京都の天皇は、長らく尊崇されていましたが、各地の大名たちを抑え込んで、国を平定する力は欠けていました。そのため、約560年前(1400年代後半)、各地の大名たちは領地をめぐって争い、争いは続きました。約480年前(1543年)、ヨーロッパの商人たちが日本に銃をもたらしました。これによって戦争のあり方が変わり、戦闘はより危険なものへと変化しました。人々は、早く平和で安全な世の中になることを望んでいました。これは、その希望がついに形になる、時代の転換点の物語です。

東の国の有力大名

02

京都から遠く離れた東の湖が見える国に、一人の有力大名がいました。これが徳川家康です。
家康は遠江国(現在の浜松)を拠点に、戦乱の時代に立ち向かっていました。しかし、戦乱は、彼の家族にも裏切りの疑念を抱かせることになりました。史料によると、家康の妻と長男は敵方に加担したと非難され、妻は殺害され、長男は自殺を余儀なくされたとされています。
誰も、家康がどのような気持ちだったかを断言することはできません。それでも、より安全で安定した地を求めて、さらに東の南富士地域へ、そして最終的には富士山を望む駿府へと移ったのかもしれません。

さらに東へ〜沼地の町”江戸”への移封〜

03

1590年、日本の権力の中心にいたのは関白となった豊臣秀吉でした。豊臣秀吉は、駿府にいた徳川家康に対してさらに東へ、より遠くへ拠点を移すよう命じたのです。家康の国替えが戦略だったのか、慎重な姿勢だったのか、あるいは政治的バランスのためだったのかは、今も議論の的となっていますが、結果として江戸に入ることになったのです。
家康が到着した”江戸”は、入り江と湿地帯が広がる沼地の町でした。現在の東京の大都のイメージとは程遠い田舎の場所だったのです。しかし、この希望の見えない地で、家康は新しい都市づくりを始めました。戦争に巻き込まれない、安定のための都市づくりが始まりました。

平和都市の建設〜軍事力を創造力に転換〜

04

京都のはるか東、江戸(現在の東京)の湿地帯で、平和のための都市建設が始まりました。天下統一後、徳川政権は各地の大名に残されていた軍事力を都市建設に振り向けました。これが、国を上げた公共事業”公儀普請”です。
堀や水路が築かれ、遠くの資源半島の伊豆と江戸の間を、石材を積んだ3000艘もの船が行き交ったといいます。こうして、江戸は水運都市へと変貌を遂げました。この都市はしばしばアムステルダムに例えられます。西洋の造船技術も日本にもたらされ、ウィリアム・アダムス(三浦按針)は伊豆の伊東で西洋式帆船を建造したと言われています。
今でも各地に、「江戸を築くために海を渡って物資を運んだ」という伝承が遺り、軍事力の生産力への転換をレガシーを伝えています。

After Story

Gardens Born from City-Building

After Edo Castle was built, the skills developed for city construction did not disappear.
Techniques for controlling water—moats, canals, and drainage—were adapted into garden design.
Unlike Kyoto’s dry rock gardens, eastern Japan’s gardens used flowing water and ponds, shaped by the same engineering that had supported castle building.
In this way, daimyo strolling gardens emerged as a distinctive garden culture of eastern Japan—born from construction, not conflict.